数列\(a_n\)が収束することについて、意外にもわかっているようでわかっていないことがあります。
それが生んでいる最たる問題が、0.999…=1論争です。
収束するとはどういうことか、数学でよく述べられている定義では頭が麻痺するので、ちょっと違った観点で説明します。
これは、超実数など通常の実数と異なる数体系で収束という用語を使いたい場面があるときに応用します。
0.999…=1論争
0.999…=1論争とは、0.999…と1が同じかどうかという論争です。
左辺は級数であり、以下のような数列\(a_n\)の極限値です。
\[a_n=\frac{9}{10}+\frac{99}{100}+\cdots+\frac{10^n-1}{10^n}\]
したがって、この問題は、数列\(a_n\)が1に収束するかどうかという問題とみなせば答えは確定されますが、論争の論点が収束値ではなく、収束するということ自体の意味について議論されることもよく目にします。
つまり、収束するという意味解釈の違いが、論争生んでいる一つの原因となっているわけです。
この定義に従うと、0.999…という級数は1に収束することになります。
自明な収束と狭義の収束
収束とは、いいかえるとある数に限りなく近づく事を意味します。
限りなく近づくというのは、到着する(収束先に一致、収束値との差が0)という意味も含んでいます。
つまり、全ての項が1である数列も1に収束するといいます。
全ての項が1である数列をここで\(b_n\)とおくと、数列\(b_n\)は1に収束するということです。
\[b_n=1\]
\(a_n\)と\(b_n\)の違いを考えてみましょう。
\(a_n\)は全ての自然数\(n\)に対して\(a_n≠1\)です。
つまり、\(a_n\)は1に到達していません。それに対して\(b_n\)は1に到達しています。
収束には、大きく到達する収束とそうでない収束があることがわかります。
ここで到達している収束を「自明な収束」、到達しない収束を「狭義の収束」と呼ぶことにします。
「自明な収束」でない収束が「狭義の収束」です。
\(b_n\)は自明な収束です。対して、\(a_n\)は狭義の収束です。
しつこいですが、重要なので再度書いておくと、狭義の収束の数列は収束値に到達しません。
ここで、なにがしかの先入観が生まれます。
狭義の収束も、無限の彼方では、収束値に到達しているだろう・・・
この、無限の奈落に引き摺り込まれる人が多いのではないでしょうか。
実は、私もその一人でした。無限という魔術を使って、数列はすべて収束値に到達する(無限の彼方では一致する)と考えるのです。
これは、長い間私の頭にこびりついていました。極めて自然に思える考え方でした。
到達する収束
ちょっと深入りして、「自明な収束」と「狭義の収束」の特徴を考えます。
数列\(c_n\)を有理数からなる収束する数列とします。
\(c_n\)が自明な収束の場合、その収束値は有理数。これは当たり前ですね。
それでは、この命題の逆を考えます。
\(c_n\)の収束値が有理数の場合、\(c_n\)は「自明な収束」なのか「狭義の収束」なのか。
逆もまた「真なり」といいたいところですが、反例があります。
そうです、先ほど例にだした1に収束する0.999…数列\(a_n\)です。
\(a_n\)は有理数からなる数列で、収束値も有理数ですが、自明な収束ではありません。
実は、実数は、有理数からなる数列がすべて収束するように有理数を拡大した形で定義されています。
収束する数列の収束値をすべて集めると実数になるのです。
有理数に収束しない数列\(c_n\)によって有理数でない実数が定義されます。
狭義の収束の場合、収束値が有理数でないと考えてしまう誤解が、狭義の収束である0.999…が有理数1に収束しないという錯覚を生んでいると考えます。
有理数からなる数列において、
- 収束値が有理数→自明な収束
- 収束値が無理数→狭義の収束
- 自明な収束の場合→収束値は有理数
- 狭義の収束の場合→収束値は有理数または無理数
自明な収束を、「(収束値に)到達する数列」と言います。
自明でない収束を、「(収束値に)到達しない数列」または「狭義の収束」と言います。
こんどは、実数からなる数列について有理数の数列と同じことを考えます。
実数の連続性(収束する数列は実数である)により、実数でできた数列の場合、自明か狭義かの議論は意味をなしません。
実数からなる数列において、
- 収束値が有理数→自明な収束または狭義の収束
- 収束値が無理数→自明な収束または狭義の収束
- 自明収束の無理数数列→収束値は無理数
- 狭義収束の無理数数列→収束値は有理数または無理数
※無理数数列とは、無理数の項だけでできた数列の事
実数の数列で考察するに値するのは、無限大に発散する数列です。
有理数の(自明に収束しない)数列から実数を作ったように、実数の数列からあたらしい数が作れないかと考えたとき、その候補が発散する数列だからです。
実数(有理数の場合であっても)の数列の場合、無限大に発散する数列からなにか数を作ることができないか、これについて考察することは意義を感じます。
実際、その考察を先人達も行ってきました。
その結果の集大成の一つとしてロビンソンの超実数が挙げられますが、残念ながら超実数についてはあまり発展(研究)されていないようです。
限りなく近づくとは
到達する数列の実態は、自明な収束であることを述べました。
自明な収束は、いいかえると到達する収束です。
これらは自明といわれるように自明な事柄ですから、収束の本命は狭義の収束にあります。
狭義の収束の肝となるのは、(到着せず)限りなく近づくと言われる部分です。
限りなく近づくと到着するを混同することで、0.999…=1の解釈の混乱を生んでいることは先に示した通りです。
それでは、近づくとはどういうことでしょう。
それは距離の概念です。距離が小さくなることを近づくといいます。
数学(解析)では、限りなく近づくというのは、任意の正の実数εに対して、距離がεより小さくなる時です。
当然ですが、無限大に対して限りなく近づくという事はできません。
ですが、仮に発散する数列が、なんからの(仮の)数に限りなく近づくという事ができれば、それを数として実数に追加することで、実数の拡大ができそうです。
収束する数列が、収束値に限りなく近づくように、発散する数列が、なんからの数に限りなく近づいていれば、その近づいているなにかを新しい数として考えよう。それが発散する数列から新しい数を作る突破口となります。
ただ、超実数が難関である事からわかるように、この突破口はそう簡単には突破できません。
まとめ
- 数列の「収束」を「自明な収束」と「狭義の収束」に分類しました。
- 有理数数列から、「収束」の概念を使って実数を生み出せる事を示しました。
- 実数数列から、「発散」の概念を拡張して、新しい数(超実数)が生み出されることを示唆しました。
コメント
[…] 自明な収束については、収束や発散する数列を使って数を拡大するを参照してください。 […]